陽明文庫は旧公爵近衞家に長年にわたって伝襲した、大量の古文書および古典籍、ならびに若干の古美術工芸品を一括して保存管理している、特殊な歴史資料館です。
京都市内の西北、嵯峨野にもほど遠からず、双ヶ丘や桜で有名な御室仁和寺に隣接する勝景の地宇多野、その一段奥まった山ふところの幽境に、高床式鉄筋土蔵造りの書庫二棟、事務所棟、さらには百二十余坪の数寄屋建築の閲覧集会所と、そのいずれもが国の登録文化財建造物となっている施設を構えています。
そもそも近衞家は五摂家筆頭の家柄となります。1400年前、中臣鎌足(614─669)が大化の改新により天智天皇(626─671)から藤原姓を賜ったことに始まる藤原氏は、鎌足の子不比等(659─720)の次の代で南家・北家・式家・京家の四家に分かれます。
その中でも北家はその後最も繁栄し、その嫡流は代々朝廷において重要な地位を占め、平安中期には藤原道長(966─1027)に代表されるようなその全盛を迎えます。その後しばらくは摂政や関白の職に就くことにより実力実権を掌握してきた藤原北家の宗家である摂関家も、平安末期になりようやく公家による政治も衰えを見せ、その実権が武家の手に渡ります。
すると、それまで一系であったのが、道長より下ること五代、忠通(1097─1164)の次の代で二分します。つまり、忠通の嫡子基実(1143─1166)及びその子基通(1160─1233)の流れに対し、三男兼実(1149─1207)の流れが分かれ立ちます。
前者は基通の邸宅が平安京の近衞大路室町にあって近衞殿と称し、のち代々がこれを伝領して居宅としたのでそれを家の名とした近衞家、後者も代々の居住の地名をとって九条家と呼ばれました。さらにその後二、三代の間に近衞家からは鷹司家が、九条家よりは二条・一条の両家が分かれました。これよりこの五家に限って摂政・関白の職を継承することが出来るようになり、これを五つの摂関家、五摂家と称します。
五摂家の中でも近衞家は、始祖が嫡男であったことから、その筆頭に位置しています。ちなみに陽明の名は、近衞大路が大内裏の外郭十二門の一、陽明門より東に発する大路でこれを陽明大路ともいい、従って近衞殿あるいは近衞家をも陽明殿、陽明家と称したことによるものであり、この呼び名は早くから記録などに見受けられます。
また、五摂家の他の家にもそれぞれこの別の呼び名があり、挙げておくと、九条家は陶化、二条家は銅駝、一条家は桃華、鷹司家は楊梅で、楊梅以外は平安京の坊名に由来し、五家ともこの別称は官職に唐名があるように唐風のものとして名付けられ、また用いられたかと考えられています。
さて近衞家では以来連綿としてその家系絶ゆることなく、近衞家と称してからで三十一代、鎌足より数えれば一千三百年の歴史を経て今日に至っております。よって近衞家の各歴代は、その家柄ゆえもあって代々官職の最高地位にのぼり、従一位摂政関白太政大臣と位人臣を極むの言葉どおりの栄達をとげることが当然であり、鎌倉時代以降は実権こそ伴わなかったとはいえ、常に朝廷の公事儀式を中心とした政治の場に関与していました。
このように朝議にたずさわり、これを指導的立場から維持存続させてゆく上に最も重要なことは、これら儀式典礼などに関する記録をしたため、代々伝え遺してゆくことであり、日々の政務によって生ずる多量の文書類を保存伝襲することであります。後世の歴代は祖先の記し遺した記録や文書をよりどころとして政務を全うし、またその日録を記しては後代に備える。そうすることによって、永年に亙って摂関家としての権威と面目を保ってゆくことが出来たのです。
このようにして近衞家において蓄積された記録・文書の類は、千年余の星霜の間に厖大なものとなりましが、加うるに近衞家歴代には代々好学の士が多く、詩に文に、物語に和歌に、あるいは連歌にと勉学相励み、自ら作品を遺し、また他家の書を写し、善本を蒐集するなどしてその蔵書は代を重ねるに従い弥が上にも増大の一途をたどったのです。そして今日これら近衞家に伝わった古文書・古記録・古典籍その他資料の全てが、古くは奈良・平安より近くは幕末はおろか明治・大正・昭和に及ぶまでの、実に十数万点にも垂んとするものがこの陽明文庫におさめられております。
国宝八件、重要文化財六十件などの指定文化財を含むこれらをその内容から見る時に、先ず挙げなければならないのが、歴代がその当職中に記した日記です。これを関白記と称しますが、その筆頭が藤原道長による『御堂関白記』であることはいうまでもありません。藤原全盛期においてその最大権力者であった道長の、しかも正にその栄華の絶頂期での自筆にかかる日記十四巻が、一千年の年月を経て直系の家に伝存し得たことは、まさに驚愕に値するといえます。この『御堂関白記』をはじめてとして幕末の近衞忠X(1808─1898)に至る全三十二代の内、二十人の歴代が各時代にわたってそれぞれの長短の差こそあれ関白記を遺しています。
藤原道長(966─1027) | 『御堂関白記』(国宝)自筆本十四巻・古写本十二巻・御堂御記抄五巻一幅・御堂御暦記目録一通 |
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藤原師通(1062─1099) | 『後二条殿記』(国宝)自筆本一巻・古写本二十九巻 |
藤原忠実(1079─1162) | 『知足院関白記(殿記)』(重要文化財)古写本二十二冊 |
近衞家実(1179─1242) | 『猪隈関白記』自筆本二十三巻・古写本十六巻 |
近衞兼経(1210─1259) | 『岡屋関白記』(重要文化財)自筆本一巻・古写本六巻 |
近衞基平(1246─1268) | 『深心院関白記』(重要文化財)自筆本三巻・古写本四巻 |
近衞道嗣(1332─1387) | 『後深心院関白記』(重要文化財)自筆本四十九巻 |
近衞房嗣(1402─1488) | 『後知足院殿記』自筆本四巻 |
近衞政家(1444─1505) | 『後法興院記』(重要文化財)自筆本三巻・二十七冊 |
近衞尚通(1472─1544) | 『後法成寺関白記』(重要文化財)自筆本二十一冊 |
近衞信尹(1565─1614) | 『三藐院記』自筆本二巻・十三冊 |
近衞信尋(1599─1649) | 『本源自性院記』自筆本六巻・五冊 |
近衞尚嗣(1622─1653) | 『妙有真空院記』九巻・十九冊 |
近衞基X(1648─1722) | 『応円満院記』自筆本一巻・二百十三冊 |
近衞家X(1667─1736) | 『予楽院記』自筆本十九冊 |
近衞家久(1687─1737) | 『如是観院記』自筆本十六冊 |
近衞内前(1728─1785) | 『大解脱院記』自筆本二十六冊 |
近衞経X(1761─1799) | 『後予楽院記』自筆本九冊 |
近衞基前(1783─1820) | 『証常楽院記』自筆本十二冊 |
近衞忠X(1808─1898) | 『後三藐院記』自筆本六十五冊 |
近衞忠房(1838─1873) | 『忠房公記』自筆本二十二冊 |
近衞篤麿(1863─1904) | 『篤麿公記』自筆本三十七冊 |
これらの歴代関白記が、陽明文庫における収蔵物全体の中心を成す柱であることはいうまでもありません。そして、これらを支えるものとして、各時代における家司、あるいは近衞家に関連の深い家柄の公家の日記を所蔵しています。
平親信(946─1017)・行親(生歿年不詳)・定家(生歿年不詳)等 | 『平記』(重要文化財)古写本十巻 |
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藤原為房(1049─1115) | 『大府記』(重要文化財)古写本一巻 |
藤原宗忠(1062─1141) | 『中右記』(重要文化財)古写本四十四巻 |
藤原為隆(?─1172) | 『永昌記』(重要文化財)古写本三巻 |
平信範(1112─1187) | 『兵範記』(重要文化財)自筆本四十五巻 |
三条実房(1147─1225) | 『愚昧記』(重要文化財)自筆本二巻・古写本一巻 |
三条公忠(1324─1383) | 『後愚昧記』(重要文化財)自筆本一巻 |
宝永・正徳・享保年間以降幕末に至る間の近衞家家司 | 『雑事日記』数百冊 |
陽明文庫はこれら記録類の他に、目録記載上で十万点を数える文書類を所蔵しています。
それらの厖大な文書類は今日既に全て目録登録され、また、これらの資料群にふさわしい最適の方法で分類項目化されています。 資料は先ず、第一門「家門・付諸家」、第二門「皇室」に始まり、第三門「書状」、第四門「公事・儀式」等全部で二十二部門と番外に分類されています。更にこれらは各部門毎に細分化した項目が立てられており、例えば第一門「家門・付諸家」では1.家譜系図、2.家門官歴・伝記、3.家領─殿下渡領・家屋敷・書庫・鎮守、4.財政─一般金穀関係・拝領米、5.贈答、6.着袴・深曾木、7.元服─名字・叙位・禁色雑袍宣下、8.婚礼・縁組・他家相続、9.家門御産・御誕生、10.拝賀・着陣・直衣始め、11.御賀、12.凶事・院号・願文・祭事・仏事・墓、13.落錺・出家・入室得度法号、14.遺言・遺誡・教訓、15.紋章、16.家門年中行事、等以下34.諸会・華族会館・慈善事業、までとなっております。他の部門においてもおなじようにそれぞれ細項目化されていて、その全貌を一覧すると、あたかも公家文化の百科辞書を見ているようで、その各項目毎に数知れぬ資料が現存するとなれば、この一大資料群の持つ意義が、如何に深甚なるものか計り知るべくもありません。
これらの資料の内容から見ると、その多くの割合を占める歴史資料に対して、一方文書目録上も一定の部門を得、またこれとは別に「典籍目録」として登録されている資料群の内では過半に及ぶ文学文芸資料の類も非常に豊富に所蔵しています。
これは偏に、前述のように近衞家の各歴代の多くが、この分野に於いても活発に活動し実績を遺した結果と云うに尽きます。
例えば陽明文庫に所蔵される文学資料のなかで最も重要な位置を占める歌合関係の資料について見ても、十巻本歌合の場合は正に摂関家全盛期とも云える道長の嫡子頼通(992─1074)によって企画された歌合全集編纂事業の成果であります。
それに継ぐ二十巻本類聚歌合は最終的には道長の五代孫忠通が関与して成ったとされることなど、平安歌合の編纂と摂関家とは密接な関係に有り、しかもその成果たる十巻本・二十巻本の資料が摂関家の直系子孫の近衞家に伝わっている。これも恐らく中世のある時期まではほとんどがそのまま伝わっていたことも十分考えられますが、今日では十巻本が巻六の完本と巻五・巻十の一部分が、二十巻本は巻八・十一の完本のほか十数巻の残巻のみが伝存しています。
このように創生された資料が約九百年の星霜を経て同じ家に伝承されるということは希有と云うべく、歴史資料の『御堂関白記』に比肩すると云っても過言ではありません。
また中世末から近世に入ってからの近衞家での各歴代のこの分野での活躍はめざましいものがあります。十六代前久(1536─1612)及び十七代信尹はいずれも和歌・連歌に特に優れ、多くの詠歌を遺しています。
全て詠草という形であるがその数は膨大で、共に編集して家集とする為に十二分の質と量を所蔵しています。加えるにこの両者はそれぞれ種々の歌書・歌集を集書していて、自ら書写しまた命じて写させたものが数多く遺されています。
こうした情況はこの二代に限る訳ではありません。以後幕末に至る各歴代が多少の差こそあれ同様の業績を遺しています。和歌のみならず物語等においても同様で、二十代基Xは源氏物語五十四帖を全て自ら書写し、更にはあまたの古注釈を勘案して独自の注釈書を編み『一簀抄』と名付けました。これに用いられた参考資料としての注釈書は世の源氏注釈書の殆どを網羅し、本文検証に用いられたと思われる源氏物語テキストは十指に余ります。これらはその『一簀抄』と共に今日までそのまま伝えられています。このような一、二の例にとどまらず近衞家では各時代を通して同様に、文学文芸資料も数限り無く生み出され伝え遺されています。
こうした歴史資料といい、文芸資料といい、この厖大な文書はどれ一つをとってみてもそれらが各々単独に存在することなく、必ずその時々の歴史事実との係わりから、各文書間、あるいは記録と文書と、互いに関連しあって伝存しております。
例えば一つの史実について調べる時に、その事柄が片や歴代関白記に記録されていれば、また家司の日録にも詳述され、それに関する文書が一括して存在していて、その事柄の全貌を隈なく窺い知ることが出来ます。あるいは、一枚の文書の、それのみでは推量し難い内容も、日記やあるいは他の文書にその関連記事を見出すことにより、容易にまた正確に、その実態を把握し得る事ができるわけです。
また文芸作品などでは、その推敲添削の過程を示す資料や、種々の文芸活動の詳細を記述した歴代の記録などが並行して存在することで、その実情を隈なく知る事が出来ます。このように各資料が有機的に働きあい、よりその資料的価値を高め得ることは、この文庫の収蔵内容のように、一家系でもって全ての資料を、それこそ一紙あまさず伝襲し続けて蓄積された資料群においてのみ可能であり、これがこの文庫の最も重要な特色の一つであると同時にまた、ここに最大の意義があります。
しかしながら、これらの大資料群も今日まで安穏として伝わってきたわけではありません。近衞家では歴代の遺誡などにも見受けられるものですが、文庫におさめられた書籍そのほか累代の物を、分散させることを堅く禁じ、それを護り伝えることを家憲としてきました。
かの応仁の乱の際には、代々の日記など五十箱を洛北岩倉の実相院へ引移して戦火を逃れたことが、時の当主政家の『後法興院記』に次のように記されています。
「〔文正元年(1466)八月〕九日戊申、晴、世上事、近日、可及大乱之由、自方々、相示之間、代々御記等五十合、今日遺石蔵、自実門、依被命也、洛中騒動以外事也、諸大名軍勢上洛云々、」
実門は、実相院門跡大僧正増運(1434─1493)で、政家の兄弟です。この翌年八月、近衞家の邸宅は軍勢の乱入によって焼き払われ、焼失してしまいましたが、代々の貴重な資料は無事でした。この戦火で諸家の記録など多くが失われたことが同じ『後法興院記』に見受けられることを考えれば、近衞家の場合は単に僥倖に恵まれたというのではなく、その努力の賜ものであるといえるでしょう。
また、近世の近衞家の本宅は、今の京都御苑の今出川御門の内、西寄りにありましたが、江戸時代、禁裏御所及びその周辺の公家町は、再三再四火災があり、延宝元年(1673)五月内裏炎上、時の霊元天皇(1654─1732)は近衞第を仮御所としました。
ところが、延宝三年十一月二十五日またも京中に大火が起こり、御所周辺にも猛火が襲いました。あと数日で新造の内裏へ還幸されるという時、仮内裏の近衞第も延焼罹災しました。
当主基Xの日記によれば、避難された天皇に従っていた基Xのもとへ、当初家司が馳せ来ての報告では、
「文庫無恙之由也、又諸道具等之庫、亦以無恙之由」
でありましたが、真夜中になってまた使いが馳せ参じ、
「諸道具之庫、既焼失、文庫亦火既欲入之間、五、六人押入、書籍、家宝、旧記等過半、取出之由」 と告げました。焼けていなかった筈の文庫に火が入ったのです。
「乍驚落涙千行、雖然、猶、過半残之由、聞之、漸、慰意了、」「諸道具、不残焼亡、(略)余十四歳以来日次記、焼亡、残念無極、」「此外掛物、数百幅餘、焼失了、」
かなりの資料什宝を失いました。しかし書籍や家宝代々の日記などの過半は焼失を免れました。
「取出文庫書物人数、兼里朝臣、長房朝臣、光好、明盛、侍興孝等云々、只五人之力、可感、可悦、」
これらの人達の奮迅の働きがなければ、おそらく今日の陽明文庫はその存在すら危ういというべきでしょうか。このような難関を乗り越えて来て、はじめて今日の姿があります。
同じ五摂家でも二条家はこの時の火事で文庫へ火が入り、記録などを焼滅させており、他家の場合でもまとまった資料は今日まで伝わっておらず、わずかに九条家には多少伝存していたのが、最近それも各所に分散されてしまったと聞きます。
近衞家では、この時よりもさらに決意も新たに資料の蒐集保管に力を注ぎ、二年後には新しい文庫も完成、それまで一時青蓮院の文庫に預けられた、文書・記録などを再びおさめ、以降維新に至ります。
近世近衞家にはこの本殿のほかにも、新町今出川上がるの桜御所、鴨川西岸二条の河原御殿などの私宅があり、資料の一部のものはそれらの私宅にも保管されていたでしょうが、歴代記録など主たるものは、本殿にある文庫におさめられていたと考えるべきでしょう。
さて、明治維新になって皇居が東京に移されると共に、主だった公家のほとんどは東京へ移住しました。五摂家の中でも最後まで残った近衞家も、明治十年には一族全て東京に居を移しました。
それに際し、文庫の内の最も貴重な代々の記録などごく一部は、東京へ搬ばれたでしょうが、厖大な数量の文書や典籍類はやむなく京都に残され、各所に預けられることとなりました。
それらは、今の二条城でその頃宮内省の所管であった、二条離宮や、その他近衞家にゆかりの寺、あるいは少しは近衞家の別邸の如きもしばらく遺されていて、そのような所にも保管されていたのでしょう。特に二条離宮は量質共に主だって預けられていたようです。
その後明治三十年に京都帝国大学が創設されたのを機に、三十三年には典籍などの一部が大学の図書館に寄託されました。
さらにその後大正四年、十二年と、二期、三期に分けて、京都の各所に保管されていた文書などを含め、資料の全てが、京都大学の図書館に寄託されました。また、東京へと移された家什第一の歴代関白記ほか貴重な資料は、特に全て十五の櫃におさめられ、宮内省図書寮に預けられることとなりました。
また、典籍類の一部は二十八代篤麿が学習院長であったため、同図書館に寄託されていましたが、これもその後京都大学図書館へ寄託されました。
そして昭和十三年十一月、時の首相であった近衞家二十九代文麿(1891─1945)は、まず書庫一棟をたて、東京にあった累代貴重資料をおさめ財団法人陽明文庫を発足させました。引き続き、事務所棟・第二書庫を十四年・十五年に建立し、京都大学図書館に寄託されていた、全ての文書典籍その他の資料の寄託を解除させ、逐次これに集結させました。
文麿の陽明文庫設立趣意書には次のように書かれています。
「陽明文庫は近衞家に伝世する処の鴻宝を愈々長久に保全し、又その用を迅かに宇内に闢かむが為に設置せむとするものなり。元これ一家の襲蔵なりと雖ども、然も当摂関家の嗣継壱千年、承襲を積みて帝室御物に追随する質量を胎蔵したり。(略)今や家門の占を廃し、当に天下の公宝となすべきなるを信ずるもの也。茲に於て、益々保管を厳にし、散佚を禁じ、蠹害を卻け、以て日本古文化の宝蹟を永遠に保つべく、之を財団法人に組織し、更めて有識が鍵庫を開いて資料するに便し、又、弘く世界に遺芳を伝播せんとす。これ、近衞家奉公の衷心にして、即ち本文庫に至嘱する一切なり。略記して趣意とす。」
かくして千年に近い年月、代々弛まぬ努力をして伝え継がれてきた資料群は、その歴代の堅く誡めてきた資料離散という事態の、将来とも起こらぬことを一応約束された形で、二棟の書庫に静かにおさめられて現在に至っています。
そして発足より七十年、その整理に調査にと努力が続けられ、あるいは学術研究者の需めに応じて閲覧に供せられ、また、一般の愛好家には展示公開によって、その目を楽しませ古典文化に対する欲求を満たすなど、文化的貢献といった公益法人としての活動も徐々にではあるが地道に続けられています。
昭和五十二年 | 仙台市立博物館 |
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昭和五十七年・六十年 | 岡山美術館 |
昭和六十年 | 熊本県立美術館 |
昭和六十三年 | 石川県立歴史博物館 |
平成二年 | 静岡県三島市 佐野美術館 |
平成四年 | 下関市立美術館 |
平成八年 | 下諏訪町立諏訪湖博物館 |
平成十年 | 静岡県熱海市MOA美術館 |
平成十二年 | 四日市市立博物館 |
平成十五年 | 愛知県長久手町名都美術館 |
平成二十年 | 東京国立博物館 |
平成二十三年 | 青森県弘前市 市立博物館 |
平成二十三年 | 東京都立川市 国文学研究資料館 |
平成二十四年 | 京都国立博物館 |
平成二十六年 | 九州国立博物館 |
一方、什宝資料の複製刊行なども逐次行われています。特に学術研究に資するために昭和五十年より刊行を開始した「陽明叢書」は国書三十二冊を完結。記録文書篇の十六冊を刊行、尚、継続中です。
また、調査研究については昭和五十一年より、国文学研究資料館による調査及びマイクロ撮影が行われ、今日まで約一万点の資料四十八万コマの撮影がなされ未だ継続中です。さらに近年、科学研究補助金学術創成研究プロジェクトの協力によって、全収蔵資料目録のデジタル化及び『御堂関白記』をはじめとする歴代関白記全てなどのデジタル映像データの完成等、この方面での画期的な成果をあげています。
いずれにしても、その厖大な内容は僅かな年月で調べ尽くせるものでもなく、大部分が今後の研究調査によって、その真価を究めつくされる日を待っている状態です。
尚、当法人は平成二十四年三月二十三日付にて京都府より公益財団法人の認定を受け、同四月一日より、近衞家伝襲の至宝をして、いよいよ世々に文化的貢献をせしむべく、新たに公益財団法人陽明文庫として発足しました。